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2025.12.20

時を超える知の灯 — 「適塾」で感じる歴史の息吹

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時を超える知の灯 — 「適塾」で感じる歴史の息吹

大阪、淀屋橋のビル群に囲まれた一角に、ひっそりと江戸時代の町屋が姿を現します。数多くの英才を世に送り出したことで知られる蘭学塾「適塾(てきじゅく)」は、1838(天保9)年に蘭学者、緒方 洪庵(おがた こうあん)が瓦町で開き、その後1845(弘化2)年に現在の場所へと移転。

幕末から明治維新へと向かう激動の時代に、この小さな塾で学んだ福沢諭吉をはじめとする若者たちが、日本の未来を形作っていきました。

塾生たちが寝泊まりし、学問に没頭した塾生大部屋

塾生たちが寝泊まりし、学問に没頭した塾生大部屋

時に彼らは異国の知識に胸を躍らせ、時に日本の行く末を案じながら机に向かいました。彼らが残した “知の灯”は、その後の日本の進路を大きく変えたのです。

「適塾」は単なる古建築ではなく、過去から未来への知の架け橋であり、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれる場所。

「適塾」の情報発信と保存に取り組む、大阪大学適塾記念センターの松永和浩(まつなが かずひろ)准教授に、「適塾」の歴史とその意義について伺いました。

緒方洪庵の志とはじまりの場所

「適塾」の創設者、緒方洪庵

「適塾」の創設者、緒方洪庵

「世の中に必要とされる人材を育てたい。洪庵の胸にあったのは、そんな強い使命感だったのだと思います。」と語る松永さん。

洪庵が生きた時代、人々はコレラという未知の病に苦しんでいました。当時主流だった漢方医学では効果的な治療が見出せず、人々は対応に苦慮していたのです。

武士である父が大坂での勤務からの帰途、神戸でコレラに苦しむ人々の惨状を目にしました。その様子を聞いた洪庵は、「世の中の人の役に立つ。」と胸に強く刻み、医学の道へと足を踏み入れたといわれています。

“国のため、道のために、自分の能力を世に還元したい”そんな洪庵の志は、「適塾」という形で結実。昼間は町医者として患者に寄り添い、夜には蘭書の翻訳に遅くまで取り組み、身分に関わらず学問に励む若者たちを背中で導いたそうです。

その学費は他の私塾に比べて安く設定されたことも手伝って、洪庵の理念に共感した多様な若者たちが全国から集まり、学問に打ち込んでいきました。

血気盛んな塾生たちが生活の中でつけた塾生大部屋、柱の刀傷

血気盛んな塾生たちが生活の中でつけた塾生大部屋、柱の刀傷

歴史的な偉人となった塾生たちの日々

塾生たちがご飯をかき込んで食べていたという台所

塾生たちがご飯をかき込んで食べていたという台所

塾生数は累計で1,000名を超えるといわれ、多くの若者がこの場で学んできました。そんな彼らの生活は、まさに学問一筋。寝食を惜しんで学びに打ち込む日々を送っていました。

当時の塾生の署名が記された適塾の門人帳 「適々斎塾 姓名録」

当時の塾生の署名が記された適塾の門人帳 「適々斎塾 姓名録」

朝は台所から響く音で目を覚まし、食事は立ったまま勢いよくかき込む。その姿は、のちに福沢諭吉によって「百鬼立食(ひゃっきりっしょく)」と称されるほど。当の諭吉は、布団で眠ることもせず、塾生大部屋で学んだといいます。

知性を重んじる洪庵の志を受け継ぎ、彼らもまた知性を武器に時代を生き抜こうとします。辞書の取り合いが日常茶飯事だったというエピソードにも、知をめぐる真剣さがにじみます。

上級の塾生が挑んだという、月に6回行われたオランダ語の読解テスト “会読(かいどく)”では、9段階の等級に分けられ、上位の者ほど条件のよい部屋を選べる仕組みもあったそう。一人一畳という狭い寝床の場所すら、学びの成果で手に入れていたのです。

塾生たちが奪い合ったとされるオランダ語の辞書 「ヅーフ・ハルマ」

塾生たちが奪い合ったとされるオランダ語の辞書 「ヅーフ・ハルマ」

「近代的な合理性の芽生えはこの塾にあったのではないでしょうか。」と松永さん。ここで培われた思考と志が、やがて日本を動かしていく土台となっていきました。

たとえば、福沢諭吉は西洋思想を紹介し、日本の近代化を支える啓蒙活動を展開。長与専斎は日本の衛生行政や医療制度を築く牽引者に。橋本左内は若くして思想家として名を馳せ、政治の世界に大きな影響を与えました。

「適塾」は学問の場であると同時に、彼らの青春と人生の原点でもあったのです。

生きた歴史が息づく場所を伝え継ぐ

寄付をした方の名前が載る「門人帳」風芳名帳 「諭吉1枚で  “一口適塾生”」

寄付をした方の名前が載る「門人帳」風芳名帳 「諭吉1枚で “一口適塾生”」

数々の偉人を輩出してきた「適塾」は、洪庵が最新の医学書の翻訳に励み、日本医療の近代化の拠点でもありました。学問と医療の両面で近代日本の礎を築いたこの場所には、時代を越えて語り継がれるべき重みと意義があります。

そんな「適塾」が江戸時代の姿をそのまま残して現存しているのは、決して偶然ではありません。太平洋戦争時には、幾度もの大阪空襲で危険にさらされながらも焼失を免れ、その後も、貴重な建物を守るために多くの人々が手を尽くしてきたといいます。

具体的には、文化庁事業として解体修復工事や耐震改修工事を行い、防災体制の見直しや、クラウドファンディングで3次元データを計測する資金を調達するなど。「適塾」を源流とする大阪大学のみならず、市民の共有財産として未来へ伝え継ぐための取り組みを続けています。

「ここにはこれからも守り伝えるべき価値がある。市民の皆さんと共にこの場を残していきたい。」と話してくれた松永さん。 “知の灯”を未来へとつなぐ挑戦は、今も歩みを止めていません。

私たちへの問い ― 歴史が語りかけてくるもの 

「適塾」の歩みを教えてくれた、松永准教授

「適塾」の歩みを教えてくれた、松永准教授

多くの人に守られ、受け継がれてきたこの場所は、今を生きる私たちに静かに語りかけてきます。

「歴史的偉人たちも、辞書を奪い合うような恵まれない環境で必死に学んでいました。今の環境がどれだけ恵まれているかを、感じ取ってほしいです。」と松永さんは語ります。

彼らは限られた時間と空間の中で、自分の知性を信じ、社会を動かす力へと変えていきました。その原点にあるのは、「まずは自分の興味のあることに向き合ってみること」。

「適塾」は、単に過去を懐かしむ場ではありません。かつての塾生たちが思索を深めた広間には今なお、彼らの知に対する熱のような気配が残り、訪れる人々にそっと問いを投げかけてきます。

「自分は何を学び、何に情熱を注ぐのか」

その問いに耳を澄ませることで、あなた自身の “知の灯”が静かに灯り始めるかもしれません。


適塾 
電話: 06-6231-1970
住所:大阪府大阪市中央区北浜3-3-8
アクセス: Osaka Metro堺筋線 北浜駅 から徒歩5分                                                                                                      Osaka Metro御堂筋線 淀屋橋駅 から徒歩5分
HP  :https://www.tekijuku.osaka-u.ac.jp/ja/
SNS:https://x.com/Tekijuku_OsakaU
*営業時間や定休日についての詳細は、上記のリンクからご確認ください。