2024.11.22
小田急線鶴川駅から徒歩20分。さまざまな大きさの住宅やお店が並び、日常のゆったりとした空気を感じながら歩いていくと、竹の生い茂る場所「武相荘」が見えてきます。
「武相荘」は白洲次郎(しらす・じろう)氏と白洲正子(しらす・まさこ)氏が人生の多くの時間を過ごした旧邸で、現在はミュージアムとして解放されています。都内では珍しい伝統的な茅葺き屋根のお家や竹藪に囲まれた庭園が残っており、自然に囲まれた暮らしを楽しむことができます。
1942年、白洲次郎・正子夫妻が戦時中の食糧危機を見越して、鶴川に引っ越してきたことから「武相荘」の歴史は始まります。「武相荘」という名前は家が武蔵と相模の国境沿いに位置していることから、無愛想をもじって「武相荘」となったそう。
白洲次郎氏(以下、次郎氏)は第2次世界大戦後の吉田茂内閣で、GHQとの連絡役として活躍した人物であり、多くの企業で活躍した実業家でもあります。また白洲正子氏(以下、正子氏)は小林秀雄や河上徹太郎をはじめとした日本を代表する文化人との交流を深め、「かくれ里」や「西国巡礼」など文化や芸術に関する著作を発表した随筆家として知られています。戦後、二人はそれぞれの分野で活躍しますが、「武相荘」で暮らし続けることは終生変わりませんでした。
「武相荘」は元々養蚕農家の住居だったそう。二人は日本家屋の良さを保ちつつ、心地よい空間へと改築していきました。土間だった場所にタイルを敷き、ソファを置いた洋風の客間スペースや、畳が敷かれ囲炉裏が切ってあるお部屋。正子氏が思索を深め、著作を書いていた書斎は現在も当時とほぼ変わらない状態で保存されています。
お部屋に使用されている家具は正子氏が選んだもので、お部屋には実際に使用されていた骨董品も展示されています。骨董の収集家であり、銀座で染織・工芸の店を営んでいたこともある正子氏が愛した品々から、彼女の美しさに対するまなざしを感じることができます。
「武相荘」がミュージアムとなったきっかけは白洲夫妻の娘である牧山桂子さんの想いでした。正子氏が亡くなった後、「武相荘」は桂子さんの兄に引き取られましたが、思うように活用できず売却の相談をされたそうです。
2歳の頃から「武相荘」で育った桂子さんにとっては、たくさんの思い出が詰まった場所。誰かの手に渡るよりは自分が引き継ぎたいと、桂子さんは武相荘を引き継ぐことを決めます。
とはいえ、桂子さんは当時別の場所に住んでおり、当面「武相荘」に住む予定はありませんでした。家は人がいないと荒れていくため、人が定期的に訪れるミュージアムにしたら「武相荘」の状態を維持できるかもしれない。そんな想いから、「武相荘」は2001年にミュージアムとしてオープンすることになりました。
この背景から「武相荘」は白洲夫妻の功績や背景を発信する場所ではなく、二人の暮らしや場所を残したいという思いが起点となっている。そう話すのは現在館長を務める牧山圭男(まきやま・よしお)さんです。
「『武相荘』は親が有名で功績を発信しようという意図ではなく、この場所を残したいという想いから始まっています。その想いは今でも変わっていません。だから、『武相荘』はちょっと風変わりで、アメリカやイギリスの学校に通っていた明治生まれの頑固な夫婦が、自分たちの好きなように古い農家の家を改築しながら粛々と暮らしていた。その暮らし向きを見てほしいと思っています。」
「武相荘」が伝えているのは、白洲夫妻が残した功績ではなく、暮らしである。その一貫した想いが、二人の歴史ではなく暮らしの風景に焦点をあてた展示に反映されています。
「武相荘」で白洲夫妻が大切にしていたのは自然が身近にある暮らしでした。家の北側と南側には竹藪があり、二人は筍や山椒を家の近くで採って食べるという自然の中にある暮らしを楽しんでいたそう。
また正子氏が気に入っていたのが茅葺き屋根です。次郎氏が亡くなった後、茅葺き屋根を葺き替えるためには高額な費用がかかることがわかり、家族から瓦屋根にすることを提案されたそう。ところが、正子氏は「だめよ。私が生きている間は茅葺きのままにして」と断言し、茅引き屋根を残すことになったという逸話が残っています。
茅葺き屋根を残すことにこだわった正子氏の想いには、日本の文化や美しさへの眼差しが影響していると牧山さんは話します。
「正子は日本の文化は豊かな四季の変化があっての文化であり、自然に立脚して発展してきたと考えている人でした。茅葺き屋根は日本の夏の蒸し暑い気候にあった素材であり、農家でよく使用されるとても身近な素材。正子は日本の文化の背景にある四季や気候の文脈を認識し、そこに美しさを感じていだと思います」
「だから、いい場所を見つけられて幸せだったと思いますよ」と話す牧山さん。「武相荘」に出会うきっかけが戦争だったとはいえ、二人は「武相荘」が持つ自然の豊かさや歴史に魅せられ、自然の中にある暮らしを楽しむ豊かさを知っていました。二人が戦後も「武相荘」に住み続けたのは、二人が幸せな暮らしをするための最適な場所であったからかもしれません。
武相荘は開館してから24年ほど経ち、現在まで約90万人が訪れています。周りの景色や時代も変化していくなか、牧山さんに「武相荘」がどういう場所になって欲しいか伺うと、「日本の原風景を楽しめる場所になってほしい」と言います。
「本来は植物や鳥の声、虫の気配を身近に感じる生活は日本人にとって普通の原風景でした。しかし、今は都会化が進み、筍が取れる姿を見たことがない人や、鳥の声を聞かない人が増えている。武相荘に来る人もここが『日常の延長にある場所』ではなく、『非日常の空間』として捉えるようになったと感じています。
武相荘には日本の原風景が日常として残っている場所です。だから有名な人が住んでいた家や調度品を見る場所としてではなく、自然に囲まれたこの空間を楽しんでほしいです。ここにくると鳥のさえずりが聞こえて、竹藪の爽やかな匂いを感じ、季節の変わり目を見つけることができる。そして、少し懐かしく落ち着いた気持ちになれる場所。そういうところであって欲しいと思います。」
「武相荘」は戦後活躍した白洲夫妻が住んでいた旧邸である。その説明は確かに事実ではあります。しかし、「武相荘」が今私たちに伝えているのは「あなたにとって豊かな暮らしとはどういうものか」という本質的な問いであるように感じます。「武相荘」は著名人が住んでいた非日常の舞台ではなく、自分たちの周りにある日常の豊かさを再発見できる場所なのです。
旧白洲邸 武相荘
住所:〒195-0053 東京都町田市能ヶ谷7丁目3番2号
HP:https://buaiso.com/
※営業時間や定休日についての詳細は上記のリンク先にてご確認ください。